あしびなー歌舞団
今日は、
私の人生のターニングポイントだった
歌舞団のお話を。
20代、宮城流鳳乃会で
琉球舞踊の教師免許をいただいた私は、
後輩の指導をしながら舞台で経験を積みたいと思っていました。
その頃、沖縄サミットがあったり、
世間では安室奈美恵ちゃんブームで
なにかと沖縄が話題に。
邦楽を教えて男性舞踊家が増えてきて、盛り上がりを迎えておりました。(人間国宝になってます)
沖縄市に小劇場ができて、沖縄市にお稽古場があった私の師匠も参加することになり、
私も旗揚げのメンバーに。
違う流派の若手女性舞踊家のみなさんと過ごす日々は刺激的でした。
それぞれに自分の稽古場のお稽古が終了してから集まるので、夜中から始まることも…
ダメ出し受けて、稽古の繰り返し。
明け方まで語り合うこともあり、
そのまま首里城の仕事に向かうこともありました。
思えば一番辛くて、一番楽しかった日々かもしれません。
当時、閉鎖的だった世界に
各家元は自分の弟子を他に預けることはしません。
しかも、音楽も現代的な沖縄音楽にのせて、
衣装も古典的なものは少なく、かなりの挑戦だったと思います。
(今、その世界から離れているから私も話せる(笑))
劇場の館長も、沖縄のお笑い界を代表する笑築過激団の玉城満さん。(現在は沖縄市議会議員)
どの角度から見ても
新しいものへの挑戦で、非難覚悟の旗揚げでした。
若い私たちには分からなかったことも、今なら、すごいことしてたんだなーと。
そこでのメンバーとの出会いが私を引退へと導きました。
もちろん自分の実力はわかってはいましたので、脇役なりに迷惑かけないように精一杯頑張っていたつもりです。
でも、わたしがどれだけ努力してもできないことが、後輩が簡単にやってしまう。そして、できる人には、華がある。
違う道を歩く選択を私に感じさせてくれたから今があるのです。
もちろん私の最後の舞台は
師匠が企画してくれた稽古場の舞台でしたが、歌舞団の皆さんからもお花とメッセージをいただき、今でもメッセージは大切にとってあります。
そして、3年前、ビッグサイトでのイベントに仲間の一人が来るときに会いに行きました。
今のようにSNSも、普及してない時に離れてからの再開でしたから、10年以上ぶり。会った瞬間に抱きついて泣いてしまいました。
その夜に、はじめて、
あなたと出会って引退を決めた、、と告白しました。さらに涙、涙でしたが、
私にとっては未練も全くなく辞められたのは彼女のおかげです。
それからは私が帰省する時に
メンバーとスタッフと夜通し語り合っています。
現在は主婦になっていたり
沖縄の大女優になっていたり
政治家になっていたり
それぞれに活躍の場所を変えてはいますが、
若い頃のこの経験はみんなの宝
今、沖縄の舞踊界、繋がっている方のSNSを見るくらいですが、
皆さんの活躍を遠くから応援し、
そして、沖縄へ遊びに行かれるかたや
私の発信から琉球舞踊へ関心を持っていただけるようにしたいと思っています。
そして、今も
舞踊は忘れていません。
慰問活動や、ポートレートを通して、
紅型や沖縄の芸能を広める活動はしていきたいと思います。